退官教官が学生に贈るメッセージ 文学部 柏原啓一教授
東北大学文学部で26年にわたって哲学の研究と教育に携わり、この3月に停年を迎えた。かえりみて、研究第一主義を掲げる東北大学で研究生活を送り得たことは、まことに幸せであった。そして、この研究第一主義という点については、大学生活を送るために東北大学を選んだ学生諸君にとっても、また幸せなことといわなければならない。(289号3面・大学)
大学において教育を受けるとは、教官の研究の一端に触れる、ということである。学問の研究とはどのように行われているのかを、身をもって具体的に知ることが、大学教育の眼目である。したがって、教官の間に第一級の研究がなされているところでこそ、大学教育を受ける最大の意味が生じる。その点で、研究第一主義を標榜する東北大学は、もっとも入学しがいのある大学ということになる。
それでは、研究とは何か。研究とは、問題の発見と解決の提案である。
研究の第一である問題の発見とは、世間の常識や学界の通説などに対して批判の眼を養い、現状に問題を見出すことである。高校までの教育は、どちらかといえば常識や通説を理解して覚えこむことを中心にしてきた。しかし、大学生に課せられるのは、既成の知識を修得するだけでなく、そこに懐疑の余地をも探り出すことである。それは、従来のすぐれた研究のどれもが行っていることであるから、研究の一端に触れることによって、おのずと学びとられなければならない。
そして、研究の第二である解決の提案とは、いうまでもなく、問題に対する新しい解決の道を探ることである。そのためには、見当違いの努力をしないよう専門の学問の方法に十分に習熟する必要があると同時に、思いつきやひらめきを生み出す教養という素地を日ごろから身につけておくことが求められる。専門の勉強をきちんとこなすとともに、他の分野にも幅広い関心をもつ柔軟な態度を身につけるよう心がけるがよい。
さて、問題発見と解決提案のこの二点に関して大事なことは、それらが、主体的に行われること、独創的であること、である。研究が真に研究の名に値するか否かは、それが主体的かつ独創的であるかどうかにかかっている。問題の発見が他人の真似であったり常識の枠におさまっていたりしたのでは、主体的とはいえない。解決の提案にしても、それが既知の処法を出ないものであったり出来合いの答えであったりしては、独創的とはいえない。真の研究とは、問題の発見に自分なりの主体性をもたせること、解決の提案に自分なりの独創性をもたせること、である。
研究室によっては、教官が現在かかえている問題の一端が与えられることにより、問題の選択に幅がないように思われる場合があるかもしれない。しかし、その場合でも、その課題の範囲の中で解決を探る際に、与えられた問題に対する取り組み方にいろいろと創意工夫をめぐらす余地はあるはずで、そのことを通して解決の提案にも独自性が生まれてくることになる。
ところで、東北大学における学生生活は、さしあたり研究第一主義であるにしても、研究に次ぐ第二第三の生活もまた大切である。第二に、学内サークル活動がくるか、学外のグループ参加を選ぶか、あるいはアルバイトが第二の生活を占めるか、恋人との時間が第二になるのか、それは各自の自由だが、いずれにしても、他人とのつき合いを大事にする生活であって欲しいと思う。
大学生活の時代というのは、人生の中でも人格形成という点でいちばん重要な時期である。自分ではそれと意識しなくても、この四年間の人格の成長は目覚ましいものがある。しかも、人間はひとりで自分を創りあげていくわけではない。自分が自分になっていくに際しては、友人や先輩後輩、家族や教師など、他人が常に自分の人格形成に食い込んできているのであり、人間関係の中で自己を作り出していくのである。
子どものころに、近所の子ども同士が集まって年長者から年少者へと遊びをうけついでいくような、そうした遊び仲間の経験が少なくなったためか、近ごろの学生を見ていると、他人と気さくにつき合うことにやや欠けてきているように思われる。自己育成の上で大切なこの期間に、他人とつき合うすべを修得しつつ極力さまざまな人々と接するよう心がけていただきたい。
そして、人間関係に熟達することが、ひるがえってまた学問研究を人間味豊かなものにすることとなる。客観性や没価値性の名のもとに、反人間的な研究までが許容されるわけではない。人間を念頭に置かないような研究にならないためにも、他人とのつき合いを大事と考えて学生生活を送っていただきたい。
東北大学を去るに当たって、新しい東北大学の歴史を作ってくださる学生諸君に期待するところが大きい。
