[ウェブコラム]理系の強い東北大のはじまり
ご存知のように、旧帝大の東北大学。総合大学として、10の学部をかかえていますが、誰がどう見ても理系がすごい。
予算配分の違いは全国的に見ても理系が多いのは不自然ではありませんが、ノーベル賞受賞者がでたり、有名教授が多かったりと、世界的に見ても先端をはしっています。
そんな東北大学は、明治43年12月21日、東北帝国大学官制の公布により誕生しました。当時は、理科大学、農科大学の二科をもっています。(ちなみに農科大学は北海道にあり、後の北海道大学になります。)
当時、それほど工業の発達していなかった、貧しい地域であった東北地方に、なぜ理科大学が設置されたのでしょうか。1つの事情は、法・文の大学は東京・京都に2つ、医・工の大学は東京・京都・福岡に3つあるのに、理・農は、東京大学に1つあるのみだったことにあります。もともと北海道にあった農科大学を数えると、東北大学は理科大学にしないと均衡を失ってしまうのです。
最初に理科大学の総長に就任したのは長岡半太郎氏(中央に原子核があり、その周りを電子が回っている土星型の原子モデルを提唱したことで知られる)。彼は、教授陣が内定すると、海外へ留学させ、西洋文明の粋を4年にわたって学ばせました。
そうして明治44年、第一回入学生を募集するにあたり、東北理科大学は「門戸解放」という手段をとっります。学力認定のための試験はするけれど、学歴に関しては、中卒でないものでも、実力さえあれば入学できたのです。また、それまでの大学では男子しか「大学」では学べなかったところ、女子も入学することができるようにしました。
実際、大正元年には3人の女子学生が入学、3年後には女子の理学士が誕生しました。
この「門戸開放」の精神は、今でも受け継がれていて、初の女性教授が誕生したのも東北大学です。
このころの東北大学は、世界の先端に追いついていたといえます。本多光太郎氏、真島利行氏による研究の業績。若かりし掛谷宗一氏、窪田忠彦氏、石原純氏、田辺元氏らが助教授として研究し、留学していました。本多、日下部、藤原、愛知、石原氏らがともに刺激しあって研究していた事については、アインシュタイン博士も「驚異的だった」と話したといいます。
また、明治45年には医学専門部、工学専門部も設置されました。
もちろんこの後も学部の増設などでたくさんの議論がされてきましたが、「理系が強い東北大学」というのは、理系学部から、大学の基礎作りをしてきた本学の歴史を現しているのかもしれません。
(さっちん)
