東北大学新聞:

特集 東北大の足跡

6月22日、東北大学は100周年を迎えるが、その波乱に満ちた歩みは単調ではなかった。そこで東北大学新聞ではこの連載を通し、学部や部局ごとの歴史を追う。初回は、本学が「東北帝國大学」だった戦前、戦中の通史

 明治30(1897)年頃、中等学校の進歩より高級学校の増設が望まれた。当時の東京以北の高級学校は仙台の第二高等学校、仙台医学専門学校、札幌の札幌農学校の3校であり、第二次山県内閣(1898~1899)の文部大臣樺山資紀が第3、第4の帝国大学の建設を計画したが、出費の問題から中断してしまった。その後も様々な運動があった後、1906、古河家の資金援助、原敬の手腕によって本学の前身となる東北帝国大学の設立が決定し、翌年6月21日に設置の勅令が公布、さらに翌日の6月22日に公示され正式に設立が決定した。これが創立記念日となっている。
 札幌農大学を農科大学とし、仙台に理科大学を作り、あわせて東北帝大とした。理科大が創設された理由は、理科が理科系の基礎であり、当時日本の理科の大きな業績だったのに対し、理科大学は東京帝国大学のみだったからだ。理科大学は資金の問題で第二高等学校の運動場の北西部に建てられ、1911年1月1日に開設された。
 この大学の特色となっていたのは、専門外の共通講義が設けられたこと、学生に補助金(貸給、補給)を行ったこと、そして門戸開放という入学資格の拡大である。大正元年には日本初の女子大学生が入学し、当時の話題となった。
 1911年9月11日、理科大学で入学宣誓式が行われ、沢柳政太郎総長と小川正考学長の訓示で学術研究第一主義が宣言されている。同時に、河北新報に寄せた総長の声明では社会に近い実用性重視主義も宣言されている。
 1912年、膨大な種類と量の蔵書を持つ狩野亨吉氏の蔵書を購入。蔵書と料金の支払いは分割で行われ約40年続いた。狩野氏は支払われた代金で本を買い、再び大学に送るという行為を行い、当時6万冊と見積もられた蔵書は10万冊にのぼった。この購入により、東北大学は和算の総本山の地位を得、まだ無き法文科の資料が充実した。
 理・農科大学を持った本学は次に医・工科大学を作ろうとした。資金面から新しい大学を作ることができず、また質の低下から他の学校を昇格することができなかった。そこで、ひとまず本学に包括し、人材、設備を整えた後に大学にする「専門部」という考えだった。こうして、明治45年仙台医学専門学校、仙台高等工業高等学校を包括して医学専門学部、工学専門学部が作られた。
 1915年、医学専門学部は新入生募集を止め、医科大学を開設した。大正7年、最後の卒業とともに医学専門学部は廃止された。僅か数名の教授、助教授が医大に移り、他の教授らは転任した。この時退官した山形仲芸が最初の名誉教授である。
1918年、農科大学が北海道帝国大学農科大学として分離した。
 工科大学の開設は、理科大学に応用科学科を置いたことからはじまったが、医学専門部の廃校を受けて工学専門学部は分離運動を起こしたことで、土地を新たに買い、1919年5月21日、工学部を開設した。工学専門部は仙台工業学校に独立した。同日、附属鉄鋼研究所が設置された。附属研究所は構内で唯一つの役割を果たすもので東京以外に設置されたのは初めて。
 1918年に大学令、翌年には帝国大学令及び関連する8つの法律と勅令が公布された。これにより学部制となった。
 大正に入り、資本主義、政党政治、自由主義の発達から教養人を求める声が高まった。また文科系高等学校の増加などから、大正1922年、旧医専跡に法文学部が設立された。経済学部が含まれていないのは、帝国大学では官僚養成を目的とされ、経済学は不必要されていたからである。
 昭和のはじめから10年ほどまで学生運動が盛んになっていった。1931年には3.15事件のビラ配布などで学生が検挙される事件も起きた。しかし、教官学生の繋がりが強くデモやストの類は少なかった。
戦時中は早期卒業、最終的には書類上のみの入学などで、学生はことごとく徴兵された。それにより1945年3月には一切の授業を停止。後の空襲後には工場で教授が講義することや、学生が工場を休んで出席することができるようになった。7月9日、B29の爆撃を受け片平丁構内の全建物の40%を失った。

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